今年も庭(過剰表現)にある木に金柑の実が生った。
朝食のデザート(丸かじり)にするため、私はほぼ毎朝、そそくさとその金柑をもぎ取りに庭へ向かう。
少量でもいいから新鮮なものを食べたいので、少しずつ少しずつ…。
今年は50粒ほど食べた。まだ、あと数粒ほど木に生っているが、盛んな時期は過ぎたようで、今生っているものは色が薄い。でも、美味しい。
…家族の他の者は、たぶん食べていなく、ほぼ私が食べた、今年も。
金柑の木を植えてくれた亡き祖母に感謝をする。
植木いじりが好きだった祖母は、生前、花以外にもこの狭き庭でいろいろな食べ物を栽培していた。トマト、ナス、きゅうり、いちご、ピーマン…。春は金柑、冬はみかんだが…この二つは祖母がこの家を離れてから実をつけるようになったという切ない現象。
あるとき、祖母がぶどうの実のついた鉢を買ってきたことがあった。その数日後、祖母がしきりに訴える。「ぶどうが全部食べられている」と。
鉢を見ると、ぶどうの皮が鉢の周りに捨ててあって、まさに「食い散らかされた」という状態だった。
祖母は言う。
「猫が来て食べたんだ」あるいは「知らない男の人が入って食べた」と。
どうだろう?
猫があんな上手に皮だけ出すかな?
見ず知らずの男性が、建物の奥に置いてある鉢を見つけてぶどうだけ食べにくるだろうか?
まあ、なんというか、そうなると、誰が食べたのかということは祖母以外の家族は推測できていた。
しかし、かといって「ぶどうを食べたと思われる人物」を認知症が始まっていた祖母に伝えたところで、祖母が「思い出したよ、私が食べたんだ」とは絶対言わないし、それどころか激しく非難されることはわかっていたので、特に触れることはしなかった。
でも、たぶん…そういうことだと思う。
この世には、真実と事実がある。
事実が存在しても、真実が見えないこともあるし、真実を知らなくて良い場合もあるね。
ただ、事実だけで判断することは時に危険でもあり、そこに落とし穴があったりして…。
表面だけ見ていても、真実には辿り着けない。
肝に銘じます。
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